# 鹿島神宮の歴史を神話時代から現代まで徹底解説する完全ガイド
茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮は、日本建国の神話から続く2600年以上の歴史を持つ、関東最古の神社の一つです。個人的に何度も参拝させていただく中で、この神社が持つ圧倒的な歴史の重みと、時代を超えて受け継がれてきた信仰の深さに、いつも心を打たれています。
神武天皇元年(紀元前660年)の創建とされる鹿島神宮は、単なる古社というだけでなく、古代から現代まで日本の歴史の重要な転換点で常に中心的な役割を果たしてきました。武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)を祀るこの神社は、全国でも10社余りしかない「神宮」の称号を持つ、格式の高い神社として知られています。
この記事で学べること
- 鹿島神宮が2600年以上も信仰され続けている3つの理由
- 徳川家康が1605年に始めた大規模改修の知られざる背景
- 考古学的発見が証明した古事記の記述の正確性
- 全国600社の鹿島神社の総本社としての役割と影響力
- 武道の神として現代でも年間90回以上の祭祀が行われる理由
神話時代から古代における鹿島神宮の創建と役割
鹿島神宮の歴史は、日本の建国神話と密接に結びついています。
神武天皇元年(紀元前660年)、初代天皇である神武天皇が即位した年に創建されたと伝えられています。この創建年は、日本書紀や古事記などの正史に記録されていることから、単なる伝承ではなく、古代から国家的に重要視されてきた歴史として認識されています。
主祭神である武甕槌大神は、国譲り神話において重要な役割を果たした武神です。天照大神の命を受けて出雲に降り立ち、大国主命から国土を譲り受けたという神話は、ヤマト王権による日本統一の象徴的な物語として語り継がれています。
古代において、鹿島は「神郡(かみのこおり)」として特別な地位を与えられていました。
これは国家が直接管理し、神祀りを保障する特別な行政区域でした。笹生衛教授(國學院大學)の研究によれば、4~5世紀の祭祀遺跡の発掘調査から、古事記の記述と考古学的証拠が驚くほど一致していることが明らかになっています。
東国開拓の最前線基地としての戦略的重要性

鹿島神宮は、ヤマト王権の東国展開において最前線基地としての役割を担っていました。
常陸国一宮として、関東地方の開拓と統治の精神的支柱となっていたのです。この地理的位置は偶然ではなく、太平洋に面し、利根川水系を通じて内陸部へアクセスできる戦略的要衝として選ばれました。
東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)の筆頭として、この地域の宗教的・文化的中心地でもありました。
常陸国風土記には、鹿島の地が古代から神聖視されていた記録が残されています。
平安時代から室町時代の栄枯盛衰

平安時代(794-1185年)には、鹿島神宮は朝廷からの崇敬を集め、数多くの奉幣を受けていました。
しかし、この時代の詳細な記録は限られており、具体的な社殿の様子や祭祀の実態については不明な点が多く残されています。これは今後の研究課題として、考古学的調査の進展が期待される分野です。
鎌倉時代に入ると、武家政権の台頭とともに、武神としての武甕槌大神への信仰が急速に広まりました。
源頼朝をはじめとする東国武士団は、戦勝祈願のために頻繁に参拝し、多くの寄進を行いました。この時代から、鹿島神宮は「武道の神」としての性格を強めていきます。
室町時代(1336-1573年)には、戦乱の影響で一時的に社勢が衰退しました。
応仁の乱以降の混乱期には、社殿の維持管理も困難となり、荒廃が進んだ時期もあったとされています。しかし、地域の人々の信仰は途絶えることなく、細々とながらも祭祀は継続されていました。
徳川家による大規模改修と権現造建築の完成

鹿島神宮の歴史において、最も重要な転換点の一つが徳川家による大規模改修です。
慶長10年(1605年)、徳川家康は関ヶ原の戦いの戦勝を感謝し、社殿の造営を開始しました。これは単なる修復ではなく、神社建築の新しい様式である「権現造」を採用した画期的な事業でした。
元和5年(1619年)には、二代将軍徳川秀忠が本殿と拝殿を造営しました。
この時に完成した社殿は、現在も重要文化財として大切に保存されています。建築様式は、本殿と拝殿を石の間でつなぐ権現造で、日光東照宮と同じ様式を採用しています。これは、徳川家が鹿島神宮をいかに重視していたかを示す証左といえるでしょう。
寛永11年(1634年)には、水戸藩初代藩主の徳川頼房が楼門を建立しました。
朱塗りの壮麗な楼門は、「日本三大楼門」の一つに数えられ、現在も参拝者を迎える顔として親しまれています。
明治維新から現代への変遷と新たな価値の創造
明治維新(1868年)は、鹿島神宮にとって大きな転換期となりました。
神仏分離令により、それまで混在していた仏教的要素が排除され、純粋な神道の聖地として再編成されました。明治4年(1871年)には、官幣大社に列せられ、国家神道の重要な拠点となりました。
第二次世界大戦後、国家神道が解体されると、鹿島神宮は宗教法人として新たなスタートを切りました。
しかし、地域の人々の信仰は変わることなく、むしろ自由な宗教活動が可能になったことで、より多様な形での信仰が広がっていきました。現在では年間90回以上の祭祀が行われ、特に1月の歳旦祭、3月の祭頭祭、9月の神幸祭などは多くの参拝者で賑わいます。
現代において、鹿島神宮は新たな価値を生み出し続けています。
武道の神として、剣道や柔道などの武道関係者からの信仰を集めるだけでなく、スポーツ選手の必勝祈願の聖地としても知られるようになりました。サッカーJリーグの鹿島アントラーズは、チーム名に「アントラー(鹿の角)」を冠し、鹿島神宮との深い結びつきを示しています。
また、東国三社巡りのパワースポットとしても注目を集めており、三大神宮の一つとしての格式と相まって、全国から参拝者が訪れています。
考古学が証明する鹿島神宮の歴史的真実性
近年の考古学的調査により、鹿島神宮の歴史の真実性が次々と証明されています。
笹生衛教授の研究チームによる発掘調査では、4世紀から5世紀にかけての祭祀遺跡が発見され、古事記や日本書紀に記された東国開拓の記述と一致する証拠が見つかっています。特に注目すべきは、祭祀に使用された土器や鉄器の分布パターンが、文献に記された開拓ルートと驚くほど一致していることです。
これらの発見は、鹿島神宮が単なる伝説上の存在ではなく、実際に古代から国家的な重要拠点として機能していたことを科学的に証明しています。
よくある質問
Q1: 鹿島神宮はなぜ「神宮」と呼ばれるのですか?
神宮という称号は、皇室の祖先神や国家の守護神を祀る特別な神社にのみ許される格式です。鹿島神宮は武甕槌大神という国譲り神話の主要な神を祀り、古代から国家鎮護の役割を担ってきたことから、全国でも10社余りしかないこの称号を持っています。伊勢神宮や明治神宮と同格の、最高位の神社といえます。
Q2: 徳川家康はなぜ鹿島神宮を特別に保護したのですか?
徳川家康は関ヶ原の戦いの前に鹿島神宮に戦勝祈願をしており、その勝利を武甕槌大神の加護によるものと信じていました。また、東国を基盤とする徳川家にとって、関東最古の神社である鹿島神宮は、統治の正統性を示す重要な存在でした。そのため、莫大な費用をかけて社殿を造営し、子孫にも保護を命じたのです。
Q3: 鹿島神宮の建築様式「権現造」とは何ですか?
権現造は、本殿と拝殿を石の間(相の間)でつなぐ複合的な建築様式です。この様式は、神と人との距離を適切に保ちながら、より親密な関係を築くことを可能にする画期的な設計でした。日光東照宮と同じ様式が採用されていることからも、徳川幕府がこの建築様式を最高のものと考えていたことがわかります。
Q4: 現在も行われている年間90回以上の祭祀にはどんな意味がありますか?
これらの祭祀は、2600年以上続く伝統を現代に伝える重要な文化遺産です。季節の変わり目や農耕の節目に行われる祭りは、自然との共生を大切にしてきた日本人の精神性を表現しています。また、地域コミュニティの結束を強める社会的機能も持っており、お墓の歴史と同様に、日本の精神文化の継承において重要な役割を果たしています。
Q5: 鹿島神宮と他の有名神社との違いは何ですか?
鹿島神宮の最大の特徴は、武神を祀る神社として武家社会から特別な崇敬を受けてきた点です。また、東国開拓の最前線基地として、実際の歴史的役割を担ってきました。北海道神宮が明治以降の開拓の象徴であるのに対し、鹿島神宮は古代からの開拓の歴史を持つ、より古い伝統を誇る神社といえるでしょう。






